少し前から電子メールを覚えた父からメールがきた。
最近年老いたせいかなんか弱気なんだよな・・・
[真面目に生きてたら報われたのはいつまでだろう。
悪い事をやったら罰があたたったのはいつまで]
というSIONさんの歌詞を思いだしてしまいました。
近々顔を見に帰ろうと思います。
育ててくれてありがとう。
以下父より
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父さんが52年前、航路で東京晴海埠頭に上陸した日が今日4月2日午後3時ごろだった。
古めかしいトランク2個、パスポート携帯で入国監査の捺印を貰い日本本土へ上陸できた。
当時高校同級生の××君が東京港まで迎えに来て、唐草模様のフトン包みを担いで、タクシーで新橋駅へ・・彼がキップを2枚買って1枚をくれた。
彼がホームの階段を急いで駆け上がり電車に乗車し発車した。自分は初めて見た電車が自動ドアーで発車するとは、知らずビックリした。
途方にくれて、貰った切符を頼りに東京駅→吉祥寺駅へ着いた。
3時間後彼は帰ってきたが、フトン包みを担いで有楽町駅で引き返し探したそうだ。
自分は吉祥寺駅から徒歩10分の所まで歩き「吉祥寺東×映画館」で彼の帰りを3時間余り待っていた。
7時半ごろ彼も元気が無くたくたに疲れて帰り、ビックリしていた。
初めての食事は映画館前に電灯の灯った屋台があり、ラーメンを350円で食事した。
就職先は銀座8丁目の「××座」映画館に就職出来ると思い上京したが、他人が就職していた。
途方にくれて、それから1ヶ月余り仕事を捜し歩いた。
最終的に新橋のガード下に「×橋文化劇場」に就職できた。
1年間頑張って退社、××高等無線学校に入学、2年間勉強して無線従事者国家試験に合格し、学校から推薦で「××電気㈱」へ就職した。
3年間働いて退社、○山さんとの関係で茨城県××町に引越し、××電気に就職、真空管式FMライジオの設計製作に従事したが、3年間でそこも倒産した。
土浦市に「ハイー××ブ」製作所を個人で立上げ、7年後「有限会社 ××電子に名称変更して現在に至る。
52年間には困難な時もあったが、頑張ってきた。
健康に恵まれて母さんと結婚して4人の男子が生まれて、皆元気に働いてる。
少々長文になったが歴史を知るチャンスと思い綴って見ました。
体に気をつけ頑張ってください
平成20年4月2日
父より